チャリポタの絵物語
久米城の謂れ(いわれ)その3:米子城の石垣のひみつ
米子城は、別名で「久米城」とも呼ばれます。
米子人は、どうして米子城と呼ばずに久米城と呼んだのでしょうか。
その謂われのひとつに、米子城の人柱にされた娘の名が「お久米」だったからという説があります。
昔、城を建てる時に人を生き埋めにし、人柱をたてました。
それは、人柱となった人間の魂の作用で建物が崩れにくくなるという迷信があったためです。
米子城も天守の基礎を作ったおり、石垣が大雨で崩れてしまったため、崩れにくくなるよう人柱を立てたという伝説が残っています。
ただ、米子城に2つあった天守閣のうち人柱伝説があるのは、吉川氏の小天守の方だけです。
中村氏の大天守は、なぜ人柱が必要なかったのでしょうか?
その謎をとく鍵は、大天守の基礎の「石垣の構造」にありました。
大天守の基礎の石垣は、崩れにくかったのです。
では、実際に現地で撮った石垣の写真をくらべてみましょう。
写真:小天守の石垣
これは、人工的に組み上げた石垣ですね。
現代でも、明治と平成に崩れないように補修工事がなされています。
次は大天守の方。
米子の町から眺めると、たいそう立派な石垣が組んであるかのようにみえます。
しかし、うしろから写真撮ると、山に石垣を被せただけの構造だとわかります。
自然の地盤をうまく利用したともいえます。
写真:大天守の石垣
人柱をしないで城を建てた殿様を「名君なり」とほめたたえた昔話を聞いた事があります。
横田内膳は、したたかな土木工事の技術で殿様を安心させ、人柱の迷信を必要とさせなかったという事でしょうか。
次回に続く。
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文・イラスト/チャリポタ
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絵物語は、チャリポタが創作した物語(フィクション)です。