米子歴史浪漫プロジェクト


トップページ制作日記 > チャリポタの絵物語 > その2:米子城は久米(倉吉市)の城を移築した?

制作日記

チャリポタの絵物語

久米城の謂れ(いわれ)その2:米子城は久米(倉吉市)の城を移築した?


米子城は、別名で「久米城」とも呼ばれます。
米子人は、どうして米子城と呼ばずに久米城と呼んだのでしょうか?
その謂われのひとつに、「米子城の天守閣は伯耆国久米郡のお城の天守を移築したものだったから」との説があります。

「米子城は、中古だったの?」
「そんなバカな!」とはいえない事情があります。

四階建の小天守の方は毛利の吉川広家が建てたと言われますが、毛利家にその図面が一枚も残っていない疑惑があるのです。

吉川広家は、関ヶ原ののち山口県にお引っ越しになり五階建の萩城を建てています。
そんときの、萩城の骨組みは米子城の小天守とそっくりさんですので、米子城小天守を広家が建てたことは間違いなさそう。
毛利家に図面はなくても、巨大な物証があるわけですね。

萩城と米子城
イラスト:萩城と米子城


でも、基礎の石組みは完成したことは「毛利家文書」にありますが、天守閣は未完だったとも書かれています。
吉川広家殿様は、「朝鮮の役」や「関ヶ原」の出兵でお忙しかったから、全部が新築ではなかったかも。

久米郡には、かつて伯耆国の国府があり、都風の壮麗な建物がありました。
その伝統により、久米のお城は立派なものが多かったようです。
天守をそのまま持ってきたかどうかは疑問ですが、城門や城のパーツは利用されたのでしょう。

そして、国府をささえていた実務の人材も、建築にたずさわる人も久米郡から集まってきました。
それが、米子城のある現在の久米町界隈に住み着いたというのは当たり前の成り行きでしょう。
そして、久米の人々は、おらが建てた城だというので自然に「久米城」と呼び始めたに違いありません。

ただ、久米郡(倉吉)の出身者だけの間で「久米城」と言われても、この時点ではまだ米子人みんなの愛称になったわけではありません。
そうなるには、米子で評判の町娘「お久米」の伝説がさらに必要でした。

久米郡で生まれたから「お久米」と名づけられた娘。
お久米は、倉吉の女性だったのです。
その娘の名前が、久米城の謂われ(いわれ)の最有力候補になります。

次回に続く。

←戻る  次へ→


文・イラスト/チャリポタ
-------------------------------------------------------------------------------------
絵物語は、チャリポタが創作した物語(フィクション)です。
創作物語らしくエンターテインメント性を持たせています。