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制作日記

チャリポタの絵物語

日吉津決戦【五話 最終回】羽倉元蔭の最期

日吉津合戦の尼子側の総大将は羽倉元蔭でした。
戦いに敗れた尼子の船が、沖に向かって漕ぎ出ていきますが、どの軍船にも

元蔭の姿はありませんでした。

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イラスト1

彼は味方を残したまま、船に乗るのをよしとぜず、槍をぶんまわしてまだ戦っていたのです。
味方の船がはるかに沖に行ってしまったのがわかると、男は覚悟を決めます。

三十人位の槍に囲まれていました・・・。

共に戦ってきた郎党の者と、一本の松を中心に、背中合わせになって敵武者を待ち受けます。
当時は鉄砲もありましたし、弓矢でも戦えました。
なぜ、尾高軍は使わなかったのでしょうか?
それは皆、堂々と勝負して、名だたる羽倉元蔭の首を手に入れたかったからです。

彼の前に、腕に自信のあるものが、我こそはと進み出ました。
豪勇といわれた別所九郎右衛門と原権六でした。
しかし、元蔭に逆に討ち取られてしまう。

その武勇たるや、荒ぶる四天王のごとくであったと軍記に記されています。
されど槍が二つにも三つにも折れ、太刀を抜いて立ち向かっていた元蔭は、
数カ所手負いとなってしまいます。

最後には、岩田藤次郎に喉をつかれて息絶えます。
太刀を返すが、藤次郎の顔の前で刀は力尽く・・・。

無我夢中で元蔭の首を切り落としながらも岩田藤次郎は、何で自分なんだろうと不思議でした。
大手柄をあげた藤次郎に駆け寄ってきた尾高軍の極悪人の顔、そして顔、また顔があります。
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イラスト2

それを見て、藤次郎は理由がわかった気がしました。
「首は、最後に討ち取られる者の顔を選んだんだ。」
生みの親に感謝しないといけないと思いました。
なんだか元蔭の首がいとおしくなってきます。

川で洗って、お化粧してやることにした藤次郎。
首洗うのは、普通は侍の嫁さんの仕事です。
(旦那の取ってきた男の首はとても可愛いそうです。)

藤次郎は普段から化粧道具持ってますから、お手のもの。
元蔭の首がいい男になった頃、銅鑼の音がして、城主杉原盛重が決戦場に
到着したのがわかりました。

首実検がはじまります。
あわてて藤次郎は痛い足を引きずって、整列の中に加わります。
もちろん、洗い清めた元蔭の首級を大事にかかえて。
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「元蔭を討ち取ったる者前に出よ。」

一歩進み出た藤次郎が足を怪我をしているとわかると、杉原盛重は座るように合図します。
本人であるかどうかを検分したのち、藤次郎の肩を叩いてねぎらうと、
すごい形相で槍部隊を振り返ります。

槍を持って整列していた兵士たちは、震え上がりました。
なにしろ数十人で取り囲んでおきながら、逆に何人も討ち取られ、あまたの尼子軍を逃してしまった。
戦には勝っても、尾高武士の誇りは打ち砕かれていたのです。

元蔭の刀傷が、味方の槍にいくつもあるのを、ひとつずつ盛重は見ていきました。
眉にしわがはいり、目が赤らんで、それでなくても怖い顔が凄まじい感があります。

藤次郎は、震えながら目をふせて、城主の怒りがおさまるのを待ちました。
すると、盛重がふたたび自分の前に立ったのがわかりました。
元蔭の死に顔を、じっと見つめ直していたたためです。

御首(みしるし)を持っていた藤次郎の手に冷たいものが落ちました。
藤次郎は、おそるおそる顔を上げてみて、びっくり。

杉原盛重が真っ赤な目から大粒の涙を流しているではありませんか。
「まさに豪勇の武士よ。あっぱれな最期じゃ。」

皆の者も、驚き感動しています。
盛重は勇者を好み、敵であっても顕彰してやったりしています。
強盗や忍び崩れの荒くれ共を束ねることが出来たのも、この人柄があったからかもしれません。

家が焼かれた家族の者たちに再会した藤次郎。
報奨金で家の材木を買ったということです。

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文・イラスト/チャリポタ
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このレポートは、羽倉元蔭の碑文、雲陽軍実記や陰徳太平記などに基づきながら、
チャリポタの推察も交えてまとめています。