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制作日記

チャリポタの絵物語

日吉津決戦【四話】杉原盛重の戦略

初めに・・・

3コマだと話がいっこうに進まないので、絵の間に文章をはさみました。
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日吉津合戦が始まります。
尾高城主の杉原盛重は、どのような布陣で、尼子解放軍に立ち向かったのでしょう。
敵軍船の数から推測し、自軍だけでは危ういとみて、親戚の吉田元重に援軍を求めます。

これでまずは数の上で優位に立ちます。
さらに、用兵は高きから低きへ進む方が有利。
吉田軍は大山裾野の勾配を利用して、尼子軍を攻め込みました。
日野川の急流を背にした尼子軍に対して、杉原軍は川上から攻撃します。

イラスト1

挟み撃ちになった尼子軍ですが、さすがに合戦慣れした面々がいて、体勢をすぐに整えます。
その時、杉原盛重が、本丸の旗を掲げて突入を開始。

尼子軍は、てっきり城主が留守だと思っていたので、杉原の登場に動揺してしまいます。
心理作戦が功を奏し、士気が下がった尼子軍は、軍船が接岸している日吉津海岸に向かって逃走を始めました。

杉原軍はここぞとばかり尼子軍に追い打ちをかけるが、そこに仁王様のように立ちはだかったのが猛将羽倉元蔭です。元蔭は体格も大きく力も強かったが、武芸にも秀でていました。

軍略家でもあり、松江にある羽倉城を攻略して城主になり、「羽倉」と名乗るようになりました。
羽倉城は、山中鹿介らが火攻めして落とせなかった城です。
※羽倉城(わくらじょう)は、和久羅山城と同じ城です。

しんがりをつとめた元蔭は、追撃してくる兵を足止めするための秘策を部下たちに指示する。

イラスト2

それは、「槍で敵の足を突け」、というものでした。
岩田藤次郎も、この時に負傷しますが、足を引きずりながら敵を追いかけ続けます。
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さて話は最初にもどりますが、尼子十勇士の中の「〇〇〇〇」がプロデュースしたのが日吉津合戦です。
彼が風邪をこじらせて寝込んだため、羽倉元蔭が代役で総大将になりました。

ここで戦国クイズです。

その尼子十勇士の「〇〇〇〇」とはズバリ誰でしょう。これに答えたあなたは戦国通です。

(1)山中 鹿介
(2)秋上 庵介
(3)深田 泥介

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ヒントは、弓の名人といえば「〇〇〇〇」です。

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正解は(2)の秋上庵介です。

(2)の秋上庵介の尼子解放軍での役まわりは合戦のプロデューサーでした。
 戦には、軍船や武器調達などの下準備が必要です。
 彼はそうゆうところで、手腕を発揮していました。

(1)の山中鹿介は一騎打ちで有名ですが、川中島に弓の達人の秋上庵介を連れていきましたね。

(3)の深田泥介は、米子の武将です。近くレポート予定しています。

戦前の教科書に載っていた尼子十勇士をご存知ない戦後世代には、ちょっと難問だったかも知れませんね。
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さて次回は、石碑になって400年後にまで伝わる羽倉元蔭の武勇伝の続きです。

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文・イラスト/チャリポタ
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このレポートは、羽倉元蔭の碑文、雲陽軍実記や陰徳太平記などに基づきながら、
チャリポタの推察も交えてまとめています。