チャリポタの自転車探訪記
■福頼元秀 米子城下炎上【探訪記編】
戦国時代、まだ米子城が飯山にあり飯之山砦と呼ばれていた頃・・・・・軍船15艘が米子沖に侵入、5百の兵が米子城下に上陸した。
猛将羽倉元蔭が指揮する尼子の残党たちだ。
毛利配下に下った福頼家の者ども2百が飯山を死守する。
戦史に残る「羽倉元蔭の飯之山砦攻め」である。
(※軍船数や兵数は、資料により若干差異があります。)
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注)リポートは、状況やその後の考察などチャリポタの創作となっています。
この戦いについて、チャリポタが調べてみると、諸本により記述が混乱していることがわかった。
・福頼元秀が飯之山砦に立てこもっていっこうに出てこないので、怒った羽倉元蔭が
米子城下を焼き討ちにしたと書いてあるもの。
・炎上する米子城下で大決戦となり、福頼元秀は羽倉元蔭に討ち取られたという本もある。
現地リポートを決意するチャリポタ。
チャリポタは、自転車だけでなくヨットのクルーもしているので、キャプテンに頼んで中海の弓ヶ浜のあたりからヨットで飯山に舵をきってもらいました。
(※クルーとは、ロープを人力で巻いたりして風に合わせてヨットの帆を調整するヨットマンのこと)
飯山をめざす
驚いたことに飯山にかなり近づいても、飯山の頂上がなかなか見えてこない。
これは、飯山につらなる湊山の方が少し標高が高いので、死角になってしまうのだ。
航空写真でみると、位置関係がわかりやすいかも。
湊山公園上空:鳥取写真ライブラリーより
記録によると、羽倉元蔭らの軍船は夜になってから侵入している。
尼子の残党は伯耆の地形にも詳しく、まさに飯山の最大の弱点をよく知っていたということか。
最終目標は飯之山砦奪還だが、まず城下に火をつけることから初めたのは間違いない。
そして飯山を炙りたてていく。
飯之山砦は低い山なので、延焼の恐れから打って出てくる兵との小競り合いになったと思われる。
戦いの内容は明らかになってきたが、福頼元秀が死んだかどうかは不明のまま。
夜の湊山
米子城主の順番でいくと小天守を築城した古曳吉種の前の城主が福頼元秀なのは間違いないところなので、元秀はここで戦死はしていないようです。
注)現在は名前が1字違いで混同されやすい、福原元秀が羽倉元蔭に討ち取られた説が有力です。
さらに調べていくと、福頼元秀とよく混同される武将がもう1人います。
出生が不明な福頼左衛門尉(ふくよりさえもんのじょう)です。
チャリポタは今回のリポートで創作物語(フィクション)を考えましたが、
福原元秀と福頼元秀とは、名前が似てるため物語にしにくいので、
福頼左衛門尉という武将と福頼元秀が親子だったという設定で物語を作ってみました。
「福頼元秀米子城下炎上【物語編】」(フィクション)に福頼左衛門尉を登場させてみることにします。
文・イラスト/チャリポタ
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