米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

チャリポタの自転車探訪記

■古曳吉種が城内に建てた寺 浄昌寺

米子城の小天守閣を建てたといわれる古曳吉種の話は、戸上山城のリポートで少し紹介しました。

築城のため戸上山城から飯山城に移った吉種は、まず母の菩提寺として「浄昌寺」を建立します。
どうして、天守閣を建てる前にお寺なんか建てたのでしょう?

戦国時代、お寺はお城にとっても重要な任務を担っていたからです。
それは、集会所や宿泊施設としての役割です。
築城のため労役に来た人々の休憩所になったわけですね。

お寺の役割

寺の場所としては、飯山と天守閣が作られた湊山の中間あたりにあったと推定されます。
現在9号線が横断している所で、以前は病院が建っていて、住所が浄昌寺跡といわれていたことがその名残りだそうです。

浄昌寺跡
浄昌寺跡

さて、古曳吉種は築城半ばにして秀吉の「朝鮮の役」で戦死しました。
浄昌寺は、いったん灘町北の高砂に移されたあと、さらに岩倉町に移され「本教寺」と改称されて今日に至っています。
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<本教寺を訪ねて>

チャリポタは、岩倉町の本教寺を訪れました。
目的は、古曳吉種の墓にお参りしようと思ったからです。

本教寺の門
本教寺の門

本教寺の山門をくぐると、手入れの良く行き届いた前庭から、本堂にまっすぐ道がのびています。
本堂には、垂れ幕が張られていました。

「今日は、何かあるのだろうか?」とチャリポタが呟くと・・・
「今日はお彼岸だからよ」
とお墓参りにきた黒のスラックス姿のカッコイイ人(女の人)が教えてくれました。

そういえば寺町のどの寺も垂れ幕が張られていたなと思い返します。
彼女は、裏の墓地に消えてゆきました。

そうそう今日はいったい何しにきたんだと思い直して立ち止まり、チャリポタがふと前をみると、「古曳家の墓」の前に立っている自分に気がつきました。

チャリポタが参るのを待たれていたような気がして、ちょっとドキッとしましたよ吉種さん。
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<古曳家の墓と法号>

古曳家の墓は、お寺の開基ということで、たいへん立派な墓でした。

開基大檀越 古曳家之墓
開基大檀越 古曳家之墓

壇越(だんおつ)というのは、お寺を作ったり仏教を支援する人のことですが、大がつくってのは相当なものです。
墓のデザインが五輪塔風になっており、古曳家にふさわしいと思います。
法号が3つ刻まれていました。

3つの法号
3つの法号

真ん中が吉種の法号
左が妻で、右が実母の法号です。

古曳家家系譜に母ではなく、わざわざ実母と書いてあることから、吉種が古曳家の養子だったことがわかります。
古曳家には、尼子氏に仕えていた頃からの大家臣団がいたので、それを引き継いだのでしょうか。

墓の脇に、古い墓の一部が残されているようです。

古い墓の一部
古い墓の一部
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<伯耆の侍は朝鮮でいかに戦ったか>

さて本題にもどりましょう、古曳吉種は文禄元年十一月二十四日に朝鮮の碧蹄館( へきていかん )で戦死しています。
秀吉が朝鮮を攻めた文禄の役は世界史に出てきますね。

朝鮮といえば、その昔、高句麗が元(モンゴル)といっしょに日本を攻めてきました。
その時は、元に鍛えられて高句麗軍も強かった。
残忍だったので、「むくりこくり(蒙古高句麗)」という言葉が九州地方に残っていて、親が子供を叱るときに、「むくりおにこくりおにが来るぞ」というらしいです。

文禄の役の時代は高句麗から李氏朝鮮に変わっていましたが、中国の明の属国になっていました。
中国の漢民族は、属国の有能な政治家を排斥してしまうので、軍の規律は悪く、階級制度で仲間割れしていたので実質「秀吉軍対明軍」の戦いになりました。

秀吉軍が明軍と相まみえた決戦の地が碧蹄館です。
吉川広家らの伯耆軍は、最前線で奮闘しています。

この戦いは、世界史に日本が名を記した最初の戦いでもあります。
秀吉の文禄の役は、十六世紀最大の戦い。
そして、最強の部類に入っていた明軍にこの時勝ったのですから、
日本軍は世界最強を証明したことになります。

この後、関ヶ原があったのですが、それは国内戦なので世界的には評価はされていません。
徳川幕府が鎖国をできたのも、二百年以上も外敵から攻めこまれなかったのも、彼らが厳しい海外での戦いに勝利したからでしょう。

秀吉軍は明には勝ったけれど、食料庫を焼かれたため和議を結び撤退することになりました。
さっそく帰り支度はじめる侍たちがある中で、「一戦たてまつる」といって、小早川隆景は吉川広家らと共に引き返し、明軍と朝鮮軍に不意打ちを食らわせています。

このおかげで、撤退するとき一本の矢も後ろから放たれなかったという。
吉川広家は、武勲をあげ米子に凱旋して帰って来たのでした。

しかしながら、古曳家は吉種だけでなく多くの家臣たちも失ってしまいました。
そのため古曳吉種の息子の古曳種貞(たねさだ)は、関ヶ原に出兵出来なくなって刀を捨て農民になり、米子に子孫を残しています。

チャリポタが、墓の前で歴史をふりかえりながら合掌していると、墓地の仕切り塀ごしに、米子の歴史探訪ツアーの人々の帽子が横に流れて行くのが見えました。
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<米子の歴史探訪ツアーのコース>

本教寺を取り囲んでいる墓地の塀の北側の角に、「与太郎地蔵」が有るために、米子の歴史探訪コースが墓地の横道を通り過ぎるのでした。

ツアーの参加者の中に、歴史に詳しい人がいて
「この寺は、昔は城の中にあったんだよ」
と解説しておられました。

このチャリポタの探訪記を読まれたら、是非次は、
「あそこの墓は、小天守閣を建てた古曳吉種の墓だよ」
と紹介していただけたら嬉しいです。

塀の外からみる古曳家の墓
塀の外からみる古曳家の墓

話ついでに「与太郎地蔵」ですが、行方不明になった経歴を持つ珍しいお地蔵さんです。
お地蔵さんの形もしていなくて、ただの石みたいだから、道路工事でまちがって埋められたとか。

与太郎地蔵
与太郎地蔵

与太郎地蔵のお向かいの家の道路わきに、いろいろな石がならべてあるのが気になって写真を撮るチャリポタです。

いろいろな石
いろいろな石

石の形がおもしろいですね。本教寺周辺の散策はいろいろ発見があって楽しいです。

チャリポタが自転車に乗って帰ろうとすると、以前粟島で聴いた雅楽の笛の音がどこからともなく聞こえてきました。

吉種は、若いころ「雅楽之助」と署名したといいます。
雅楽をたしなむ風流人だった・・・
吹いていたのはまさか、、と思ったが、思い直して落葉の上を走りだす。

さて、来週はどこを訪ねようか。
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注1)古曳吉種の経歴は古曳家家系譜より推測いたしました。
注2)リポートは、状況やその後の考察などチャリポタの創作が含まれています。

文・イラスト/チャリポタ



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