チャリポタの自転車探訪記
■天空の城「戸上山城」
米子城の天守閣を建てたのは吉川広家といわれていますが、今でいう出張族だった広家に命ぜられ陣頭指揮をとったのは築城のスペシャリストの古曳吉種だったといわれています。その吉種が、城主となって守っていた城が「戸上山城(とかみやまじょう)」です。
現在の日野川沿いの米子市水道局のところにある切り立った堅い岩盤の山が戸上山。
山からは大山の西の裾野から遠く日吉津の海岸まで見渡せ、日野川沿いで交通の要の位置にある重要な城でした。戸上山城の絵図が残っていて、それを見ると、まるで中国の桂林のような岩山の頂上に、へばりつくように館が描かれています。
「この砦は、天空の城じゃないか!」
これは、実際に登って足でリポートしなければ!チャリポタは自転車のタイヤに空気を満タンにして、快晴の空の下、全国一美味しい水道の取水地にやってきました。
ここは、米川の源流になるところです。
米川取水口の碑のうしろに見えているのが、「戸上山」
高速道のバイパスが開通するとき、だいぶ削られていて絵図と山容がちがっているのが心配になる。
山頂に鉄塔が立っているから、頂上へ登る道は残っているはず!
バイパスの下をくぐると、山のふもとに朱色もあざやかな鳥居があって登り階段がありましたが、行き止まりになっていました。裏にまわってみることにします。
戸上山から、日野川の水流が米川にそそぎこみますが、まるで横になった滝のような激流が一気に下っていきます。爽快感がすごいので、サイクリストがよく走っている人気のコースです。
下ってすこし流れがゆるやかに曲がったところに、登り口がありました。やったし!
登り口
写真の自転車を置いたあたりに、昔は馬をとめていたのかななどと考えたら、戦国武将になった気になります。ところどころ岩盤がみえ隠れする細い道を登っていく。
これは、夜は登れない!右も左も絶壁になっていて、山の細い尾根を登っていく、足を踏みはずしたら転げ落ちる。
「やっぱ、天空の城だった」期待が膨らんできます。
ところどころ、尾根はまがって2~3坪の広場が作ってあり、ここに侍が待ちぶせしていたと思われます。
「やっぱ城だったんだ」ぞくぞくしてくる。
頂上付近で、視界をさえぎっていた樹がなくなって、片側白いフェンスだけの道になりました。
日吉津をのぞむ
日吉津海岸が一望できるようになりました。
少し登ると、大山の絶景が、、、言葉を失う。
あとで調べたら、戸上城跡は、大山の岡成などと共に古来より大山眺望スポットとして超有名な場所だったのです。登ったかいがあった!
頂上の石像
頂上には石像が鎮座しています。
絵図に描かれていた館の面影は、今はどこにも残っていませんでした。
今回の探訪と、資料や史実をもとにチャリポタが物語にしてみました。
(史実にもとづいたフィクションです)
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天正20年(1592年)
戸上山頂の館で、見慣れない着流しの男が胡座をかいて、さっきから上目ずかいで残雪の大山を睨んでいた。手には色筆を握っているので、絵師だということは誰の目にもあきらかだ。
うしろで、咳払いして小柄の男がそろりと入ってきた。
「御館様ですか。お招きいただきありがとうございます。」
城主の吉種は、ちょっと絵をのぞいて満足気に、
「あらたまらんでもよい。仕事の邪魔をしたかな画人。」
「いえ、しばし筆を置いて思案しておりました。」
「絵も、一気に描き上げるものではないようだな。築城と同じだな。
時に手を止めさせて見ないと、天守が曲がって建ってしまう。」
「ご苦労様です。御館様の仕事の手際のよさは聞きおよんでおります。
それにしても、米子城天守からの眺めは格別でしょうなあ。」
「まだ、足場ごしではあるが、広家様はお気に召されておる。」
絵師は何度もうなずいてから、彩色中の画仙紙の絵を指差し
「出来上りましたら、額に仕立てましょうか。」
「いや、そのままでよい。」
「このままで?」
「そうだ、そのまま持っていく。額に入れて朝鮮に持っていくわけにはいかんからな。」
「海の向こうまで、交易の任につかれるのですか。」
「戦じゃ」
天正20年の暮は、文禄元年になり、
この年、秀吉は大軍を持って朝鮮に攻め入った。
吉種は、この戦いで帰らぬ人になる。
この時、帰ってこれないこともあるかもしれないと覚悟していたのかもしれない。
文・イラスト/チャリポタ
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戸上山城への登り口付近(ストーリービュー)