米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

原案Tの紀行文

■中村家のルーツ ~甲賀水口紀行~

中村くんのお父さん中村一氏「以下『中村さん』」の出自ははっきりとはわかっていません。
ただ、甲賀(近江の国-今の滋賀県-の南東部)の出身であろうとの説がもっとも有力とされています。

中村さんほどの大名が、「出自がよくわからない」というのも変な話に思えるかもしれません。
ですが、当時はよっぽど生まれがはっきりしている古くからの名家国人出身でなければなかなか文献などには残りませんから、こういうことはよくある話だったりします。(例えば豊臣秀吉は尾張中村郷の農民の出身ということになっていますが、それすらも自称に過ぎません)

さて、その中村さんが岸和田での活躍を受け1585年、甲賀・水口(みなくち)に六万石の大名としてやってきます。
中村さんに故郷に錦を飾らせる・・・という秀吉の配慮もあったのかもしれませんが、この当時の甲賀という地は、紀州と同じく徳川家康に同調する動きを見せる者も居たために、それらの反対勢力を大幅に改易させた直後の不安定な状態でした。
中村さんにとっては岸和田に続き難しい土地を任された、という形になったわけですが、それだけ秀吉の信頼が厚かったことの裏返しではないかと思われます。
というわけで、前置きが長くなりましたが大名中村家が本格的にスタートした地、甲賀水口を訪問してまいりました。

まずは水口城資料館に行き情報収集を・・・と思ったのですが、訪れた日はなんと閉館日!
岸和田天性寺に続き、また予備調査不足でやらかしてしまいました(不覚…)

気を取り直して、水口岡山城跡へ向かいます。
資料館がある現「水口城跡」は江戸時代に建てられた城で、この水口岡山城こそが中村さんにより建てられた城なのです。
城がある大岡山は、水口市街に入った時から「ああ、あれが城山なんだろうな」と一目でわかるような山でしたので、看板を頼りに迷うことなく移動。麓の駐車場に車を止め、山登り開始です。


水口岡山城への登り口
水口岡山城への登り口

当時の東海道と宿場町を川とで挟む地形にあり、街道の動きににらみがきくこの山に城を築いたのはさすがと言えます。
また比高100mという米子城の城山とほぼ同じ高さの独立峰なので山上からの眺めがよく、東海道の東西の動きや遠く琵琶湖方面まで見渡せて、逆にこの山上に天守閣があれば領内への視覚効果も米子城同様に相当効果があったと思われます。
(ちなみに天守閣があったかどうかは不明だそうです。本丸の東西の端にそれぞれ大きな土台の跡が残っています。

整備された西ノ丸
整備された西ノ丸

西ノ丸から見た本丸の方
西ノ丸から見た本丸の方

ここに建っていたのは櫓だとされていますが、天守閣があったという説もあるそうです。個人的には二基とも天守閣の土台であり、当時は二つの天守を持つ城だった、ということだと米子城との共通性がまたあって面白いかなと思いますが、果たして真実は?)
水口岡山城は1590年に中村さんが静岡へ転封したあと、1600年に落城の憂き目にあいます。

本丸櫓跡
本丸櫓跡
山上からの水口市街の眺め
山上からの水口市街の眺め

その後、江戸時代に入りふもとに水口城が建てられた際に、石垣などの使える材料は城山から運び出されてしまい廃城となってしまいます。
ただ、今でも城の北側にはかろうじて石垣が残っており、当時の遺構に触れることができます。
また各郭、掘切、虎口などもよく残っていて、中村さんの立派な城造りがうかがえます。

北側に残る石垣群
北側に残る石垣群

中村さんの水口での城造り・町造りが、次の静岡での城下町にも活かされ、そして最後は米子の城と町造りに繋がっていると実感できて、とても満足した訪問となりました。