米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

原案Tの紀行文

■吉川さんが米子に造りたかった町がそこにある?~岩国紀行~

今回の「吉川プロジェクト~米子城人柱伝説編~」の原案を考えるにあたって、城の工事のために人柱をさらってくるように命じたとされる吉川広家がどういう人物であったかを知りたく、周防の国「岩国」に行ってまいりました。
(今回の紀行で私が感じた、吉川広家像が本編に色濃く反映されているので、ネタばれ防止の意味も込めて(笑)本編終了後の発表とさせていただきました)

1600年、関ヶ原の戦いの結果を受け吉川広家は米子を去り岩国へ移ります。
城と城下町を完成させることなく米子を去ることになった、吉川さんが造りたかった米子の町の完成形が岩国にはあるのでは?と思い訪れてみました。

まず、岩国のシンボル「錦帯橋」を渡って城の方へと向かいます。
この錦帯橋は広家時代に作られたものではありませんが、「錦川」を挟んで城側の武士たちが住む町と反対側の町人たちの町を繋ぐ重要な橋でした。
川を境に武士と町人の町に分かれるのは、ちょうど米子で言うところの外堀(旧加茂川)と同じ役目を果たしているのですが、こちらの錦川はいかんせん幅が広く錦帯橋が架かるまでは洪水が起こっては度々橋が流されていたそうです。

裏側から見た錦帯橋
「裏側から見た錦帯橋」


洪水に強い橋を、ということで日本のどこにもない構造の橋を作ってしまうのは、やはり吉川家の人々は他人とは少し考えるところが違うなあと感じますね。

武士たちが住んでいた町域ですが、予想以上に広くまた整然とした町割りが印象的でした。
米子の武士の町だった内堀と外堀の間の町域もかなり広いのですが、それは十万石を超える大藩だったからの話で、表高三万石(のちに石高直しで六万石)の岩国藩にしてはかなり立派な町だった様に思えます。
その町の中に、吉川家ゆかりの品々を収蔵する「吉川史料館」がありました。

吉川史料館の吉川さん

「吉川史料館の吉川さん」


現地での情報収集ではこういう地元の資料館が大変ありがたいのですが、『岸和田』『水口』と二連敗中だったので、中に入れたときは心の中でガッツポーズをしてました(笑)
展示品は吉川家ゆかりの様々な品が展示されていましたが、さすが筆まめで知られる毛利家一族だけあって、手紙の類の多さが目立っていました。
惜しむらくは収蔵品の山中鹿介の兜が展示期間ではなく見られなかったことくらいでしょうか。
吉川さんのお父さんである吉川元春が、上月城で捕虜にした山中鹿介を安芸に連れ帰るのを危険視して備中・阿井の渡で鹿介を謀殺していしまう話は有名ですが、その際に鹿介が所持していて元春が持ち帰り現在に伝わっているいう兜・・・機会があれば再訪して見てみたいものです。

山上のお城へはロープウェーで登ります。
上がって驚いたのは山上には予想以上に多くの石垣が残っていることでした。高さ200mの山の上にこれだけの規模の石垣があるとは・・・おそるべし岩国藩。

天守閣
「天守閣」


山上の天守閣は戦後になって復元されたものです。
元々の天守閣は短命で、1608年に造られて1615年の一国一城令の際に、幕府からは「岩国城の天守閣は残してもいいよ」という打診を受けていたにも関わらず、毛利宗家との関係を慮って破却してしまったそうです。
復元された天守閣を見る限りは当時流行の望楼型の天守で、米子城の小天守とは少し趣が違う様です。

本来の天守台
「本来の天守台」


眼下には岩国の城下が一望できます。

錦帯橋のそばに「槍倒し松」という松があって、こういう逸話が残されています。
大名行列が他藩の城下を通る時は、礼儀として行列の槍持ちは槍を横に倒して通るものだが、岩国藩は毛利宗家からは家臣扱いで正式な藩として扱われていなかったため、侮られたか槍を立てたまま通過する行列もあった。
そのため岩国藩の人たちは街道に張り出すように松の枝を伸ばし、槍持ちは槍を倒さないと通れないようにしたそうです。

山上からの風景。中央に見える錦帯橋
「山上からの風景。中央に見える錦帯橋」


当時の人たちは山上からも槍を倒す様を見て、ニヤニヤしていたのでしょうか?
この話が事実かどうかはともかくとしても、なんだかとても「吉川的」な逸話でいいなあと思いました。

文武両道で名が知られる父・吉川元春や、後継者として評判が高かった兄・元長。
吉川広家は、優秀な父や兄への反発からか、少年期から自分の養子縁組の話を勝手に進めたりするようなこましゃくれた性格で、長じてからも「かぶき者」として振る舞っていましましたが、前田慶次のように家を出奔するほどではなかった様です。

父と兄が死に家督を継いでからも己の才覚を信じ、数々の戦場で活躍し、関ヶ原でも己の采配・外交一つで毛利家を、そして天下の趨勢を左右しようとしました。
ですが、ここで徳川家康という強大な政治力を持つものにガツンとやられてしまい、岩国という土地に押し込められてしまったわけです。

しかし、錦帯橋や城や松のエピソードからは、この地にも吉川さんの精神というからしさはしっかり息づいているなあと感じられました。
広家は、結果的には失敗することはあっても、破滅的な決定的な逸脱は犯さない範囲で個性的な行動や才覚を振舞った人だったと考えます。

この個性の発揮の仕方は現代社会にも通じるものがあると思います。
組織とか企業とか国家など逆らえないものはあるにせよ、その枠組みの中で最善を考え行動する・・・私も吉川さんに見習いたい部分があるなと感じた、印象的な岩国訪問になりました。


文/原案T