米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

原案Tの紀行文

■加藤貞泰を訪ねて <原案Tの大洲紀行>

大洲に行って、大洲のお城に登って、「加藤さん」のことも調べてまいりました。。。
と言っても大洲城には他のお城にあるような資料や遺物がほとんどなくあまり詳しくはわからなかったのですが(汗)
ただ今回の旅で、「加藤さん」の性格(キャラ)は大体頭の中で固まってきました。

まず結論から言うと、「加藤さん」は『口数が少なく気弱で、本人はそれなりに頑張ってるのだが、他人からはあまり理解されてない』かつ『人から頼みごとをされたら断れない性格で、その結果揉め事に巻き込まれて損をしている』キャラの様です。
何故上記のようなキャラになるかというと、、、長くなりますが、今回の旅で仕入れてきた「加藤さん」情報を紹介します。

大洲イメージ

(1)「加藤さん」こと加藤貞泰が美濃黒野4万石から米子6万石に加増転封されたのが『1610年』。
表向きは「関が原の戦い(1600年)の功績により」という理由とされているが、恩賞にしてはやたら遅い。
一説によると、「加藤さん」が幕府の命令で長良川の堤防を造った時に隣の加納藩の堤防より高い堤防を造り上げたために、嫉妬した加納藩の正室(徳川家康の娘)が「黒野側の工事のせいで加納側に長良川の水が溢れてきた」と家康に言いつけたのが転封の原因らしい。

(2)「加藤さん」が米子から伊予大洲に転封されたのが『1617年』。
表向きは「大阪の陣(1615年)での功績により」という理由とされているが、米子も大洲も同じ『6万石』なので恩賞にしては意味がない。
本当は、鳥取に大大名「池田さん」が32万石で越して来ることになりどこかの土地を空けないといけなく、幕府に「米子空けるか。『加藤さん』なら文句いいそうにないしw」って決められちゃったのが転封の理由(たぶん)。

(3)近江国に私塾を開き「近江聖人」とまで言われた「中江藤樹先生」。
(米子にも加茂町に石碑がありますが、大洲城には銅像がありました)
大洲藩の先生役としてこのまま一生を過ごすのでなく、当時の先進地である京都に行って学問を深めたいと思っていた中江先生は辞職願いを出しますが「加藤さん」は『先生は藩に無くてはならない人材だから』と一度断ります。
しかし結局中江先生は大洲を脱藩。藩は追っ手を差し向けようとしますが、「加藤さん」は中江先生の学問への強い願いを知っているので『もう先生の好きにさせてあげましょう』と追っ手を出すのをやめて、見逃したということです。

---以下、「加藤さん」とは直接関係ないですがその子孫たち、大洲藩のエピソードです。---
(4)幕末、お隣土佐藩の「坂本龍馬」が土佐を脱藩した時に、土佐から大洲藩領内に逃げ込んで大洲藩の『長浜港』から船で下関に向かっている。(一体誰に頼まれて断りきれず見逃したのやら・・・)

(5)幕末、大洲藩では積極的に海外の先進技術を取り入れたいと思っていた。
そこで長崎の「坂本龍馬」を通してイギリスの蒸気船を3万両以上で購入した。名前は「いろは丸」。せっかく手に入れた西洋船なのに「交易に使いたいけんお願いしもうせ」てな感じで坂本竜馬に頼まれて、藩はそれを15日500両の賃料で「海援隊」に貸し出すことにした。だが、その最初の航海で紀伊藩の軍艦とぶつかっていろは丸は沈没。後になって龍馬と土佐藩は積荷の賠償金として7万両を紀伊藩に支払わせた。(が、船の持ち主の大洲藩は・・・)

(6)明治維新後、大洲6万石の加藤のお殿様は子爵となり、大洲の町で暮らしました。
その家は今でも「お殿様公園」という名前で町に住宅とともに残っていますが、はっきり言って『ちょっと広い庭付き蔵つきの一軒家』でした。
  一方、お隣宇和島10万石の伊達のお殿様の隠居先は幕末ながら敷地1240平米の『大庭園』。
そのお殿様は維新後もその庭園に住み続け、今でも「天赦園」という当時の名前のまま町の観光名所になっています。

だらだらと書き連ねましたが、いやあwikiに載ってないような「加藤さん」情報が一杯仕入れれてよかったです。<(_ _)>

文/原案T