米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

チャリポタの自転車探訪記

■山中鹿介の一騎打ち【尾高城編】

伯耆でも活躍した戦国武将 山中鹿介(やまなかしかのすけ)の話です。
軍記には、鹿介と菊池音八との一騎打ちが米子の尾高城であったと伝えています。

戦いの詳細までは記述がありませんが、他の一騎打ちの資料や史実をもとにチャリポタが物語
(史実にもとづいたフィクション)にしてみました。
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病弱な兄に変わって家督を継いだばかりの十六歳の鹿介は月に祈っています。
「今後三旬を限り、勇名を博せしめたまえ。」
(今日より三十日以内に立派な武功を立てることができますようにという意味)

その願いが叶えられる日はすぐにやってくる。
主君尼子義久が伯耆尾高城を攻めたときに、因伯一の豪傑といわれた菊池音八に
一騎打ちを挑む機会を得たのだ。

改名したての鹿介の名前なんて、むろん音八は知らない。
「山の中の鹿とやら、武具は貴様が選べ、何でもよい」
(若い方(又は無名な者)が、武具を選ぶ習わしがあったのです。)

鹿介は、槍を傍らに置くと、脇差を抜いた。
「俺様に、刀で挑むとはよい根性をしておるな。」
音八も、腰の綺羅びやかな大太刀を抜いてみせた。

相手が大太刀にビビらないのにちょっと驚いた音八だが、
勝負そっちのけで相手の刀の品定めを初めた。
(音八は刀マニアだったのである。)

「ほう、若造のくせに随分立派な刀を持っているじゃないか」とつぶやく。
山中家に尼子経久から賜った、龍の浮き彫りのある刀である。
今日は運がいい、名刀が手に入ったとほくそえんだ音八。

鹿介は、のちに川中島の一騎打ちでも刀勝負で相手を圧倒したように
刀の力量はあったがやはり経験の差が出てしまう。

じりじりと後退させられる。
何かに足をとられる鹿介。
自分が投げおいた槍だった。
ニヤリと笑って大太刀を振り下ろす音八。

音八の目に、大太刀を受け止めた龍の名刀が、下に落ちるのが見えた。
と思ったら、視界から鹿介の姿がみえなくなっている。

振り返ろうと首をまわそうとしたが、それはもはやできなかった。
後ろに回り込んだ鹿介の右手に血で真っ赤になった短刀が、
左手に音八の首が握られていたからである。

十三歳で敵将のよき首を打ちとった鹿介は、戦では最終的に首をとったものが勝ち
ということに早くから気がついていた。
さらに逆境にあって気転がきく。
(このときも音八が刀マニアだというのを見ぬいてそれをまんまと利用したのである。)

主君尼子義久は、この手柄を聞いて喜び、
若き鹿介に龍の柄の浮き彫りの美しい短刀を褒美に与えたとか。

山中鹿之介の一騎打ち
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さて現代にもどって、チャリポタは自転車で安来を走っていたとき、
鹿介の所持してたという龍の浮き彫りのある日本刀を見ることが出来ました!!
和鋼博物館で開催していた「中国地方の名刀展」で展示してあったのです。
伝鹿介所持刀ではなくても、同じ絵柄の日本刀でした。

和鋼博物館では、常設展でも中国地方の日本刀の本物がいくつか置いてありますよ。
日本刀は、平安時代末に、伯耆の国と備前の国で作られたのが始まりということも
展示の説明でわかりました。

そのころには、浮き彫りの技術も伯耆の国で開発されていたそうです!

和鋼博物館の写真
和鋼博物館

日本刀の原料の「たたら」の産地で出雲の国は有名ですが、
日本刀を作っていたのは実は伯耆の国の名工たちだったのですね。

米子の人は、もっと自慢してもいい歴史だと思います。日本刀の発祥の地として!

文・イラスト/チャリポタ



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