チャリポタの自転車探訪記
■大山口列車空襲のお地蔵さん
敗戦直前の昭和20年7月に米軍戦闘機3機が飛んできて、大山口に停車していた病客車を襲いました。機銃弾とロケット弾が赤十字マークを貫通し、客室内は死傷者が折り重なって血に染まる惨劇に・・・
死者は44人を数えました。
その死者の中に身元不明者があり、供養のためお地蔵さんが米子に祀られています。
毎年、「お地蔵さんまつり」が行わているというのでチャリポタがいってきました。
米子市三本松二区の公民館前に、そのお地蔵さんのお堂はあります。
まつりでは、子供たちが彩色した手作りの灯籠に火が灯されていました。
公民館の人が、かき氷を配っています。
「遠慮せんでよ」と渡されたので、チャリポタもいただきました。
三本松の地蔵まつり
2体のお地蔵さんの片方が、大山口列車空襲のお地蔵さんだそうです。
いろいろチャリポタが質問していると、赤い前掛けをはずして見せてくれます。
割れた胴体が、セメントで固めてありました。
「真っ二つに割れていたので、繋げてあるんですよ。」
日が暮れた公民館では語り部が招かれ、お地蔵さんのいわれを語られるそうです。
子供たちにまじって、チャリポタもメモをとりながら耳をかたむけました。
そして、本当にあったちょっと怖いお話が聞けました。
では、語り部さんのお話をアレンジしたチャリポタの物語です。
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〈むかし話:コレラ山のお地蔵さん〉
亡くなった人をお骨にする焼き場(火葬場)は、今は米子市長砂町にありますね。
山陰自動車道(米子バイパス)の高架下ですが、そこは昭和37年に移転されたものです。
その昔は、三本松公民館のすぐ横の公園が、焼き場だったんです。
旧焼き場が建ったのは、大正12年のこと。
その前は、あたりは砂山でコレラ山と呼ばれていました。
昔の埋葬は火葬でなく土葬だったりしましたが、コレラで死んだ人だけはここで必ず焼かれるきまりになっていたのです。
ですから、焼き場を新しく建てるのに、砂を掘ると骨が出てきたそうですよ。
長砂に移転して公園が造られ、この公民館を建てました。
その時に、壊れたお地蔵さんが出てきたそうです。
やはり骨もあり、南公園に持って行って埋めたとの事です。
そのとき、供養をし忘れていたものですから、大変なことになりました。
公民館の世話をしていた町内会長が当然亡くなった次の日に、副会長まで後を追ったのです!
ついには会計さんの足がたたなくなって、町中が大騒ぎに・・・
文化委員長が、寺の和尚さんをあわてて呼びに行きました。
体育委員長は、左官を呼びにいき、お地蔵さんを元通りにしてくれと言います。
次は、自分らの番がまわってくると思ったから2人は必死です。
無事に法要が終わり、お地蔵さんが元通りになると、会計さんが歩けるようになりました。
元気になった会計さんを見た委員長2人は抱き合って喜びました。
それからというもの立派なお堂が建てられ、毎年おまつりも行われています。
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語り部さんは話終わると、ぼつりと・・・
「私は9割は死ぬという難病を患ってました。」
「お地蔵さんにいつも手を合わせ拝んでいたら、病を克服することができました。」
「だから今こうして、語り部になってお地蔵さんの話を広めているのです。」
もしかすると、米子の隠れたパワースポットなのかもしれませんね。
チャリポタは昼間ふたたび、三本松のお地蔵を訪ねました。
大山口列車襲撃無縁地蔵
菊の花が飾ってあり、線香も絶えないようです。
すぐ隣りの、公園の門に歴史の名残を見る事ができます。
子供たちの遊び場になっていました。
立町北公園
広い公園を奥まで行って見ました。
奥の高台は焼き場の施設の基礎が残されているのでしょうか?
北側から三本松二区公民館を望む
奥には、もうひとつお地蔵さん。
「米原子供地蔵」です。
公園は、三本松と米原にまたがっていたのです。
米原子供地蔵
焼き場を作っていいという許可がおりたあと、三本松の住民は賛成しました。
しかし、米原の住民の賛成がなかなか得られずに、何年か後になってやっと建設されたそうです。
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文・イラスト/チャリポタ