米子歴史浪漫プロジェクト


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制作日記

チャリポタの自転車探訪記

■羽倉元蔭 お地蔵さまになった戦国武将

戦国時代の尼子の猛将 羽倉元蔭(元陰)が、鳥取県日吉津村でお地蔵さまとして祀られているという情報をキャッチしました。
早速、チャリポタがリポートします。
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日吉津の古老の話では、海岸の松並木のほとりに羽倉元蔭の地蔵はあったそうですが、ゆかりの松はもう残ってないだろうということでした。日吉津村では、羽倉元蔭の地蔵のことを「はぐろさん」と呼ぶそうです。

日吉津海岸の美しい松並木の原風景を求めて、チャリポタは自転車を日野川下流へ、そして海岸沿いを走ります。
この海岸線は、大山の裾野が広く見渡せる、風光明媚なコースです。

日吉津海岸の松並木
<日吉津海岸の松並木>

景色的には昔も今も変わりませんが、羽倉元蔭の時代には海岸線は、もっと上流で、今のイオン日吉津店のある国道431号線の辺りとのこと。チャリポタは、畑や田んぼのなかにある新興住宅地を横目でみながら、イオンを通り抜け、日吉津村集落に入ります。

村役場まで行かずに右に折れ百メートルくらい細い道を進むと地蔵さまが祀られている墓地があります。

・「はぐろさん」は、石の地蔵さまの体を削って歯痛の薬にされていた。
・「はぐろ」と「はいた」いう名前の語感が似たせいか、明治時代まで信じられていたそう。

そのため、地蔵さまは削られてボロボロになりまっぷたつに割れているという古老の話。

歯痛の薬にされた羽倉地蔵
<歯痛の薬にされた羽倉地蔵>

チャリポタは、墓地に入ってすぐに、地蔵さまの台座を見つけましたが、まっぷたつの地蔵さまの本体はあたりに残されていませんでした。

「すでに時遅かったか!」

その場にうずくまって、うなだれるチャリポタの視界に、公衆電話ボックスが見えました。
曇った透明なプラスチック板越しに、ボロボロの石の塊が中にぼんやりと見れます。
公衆電話ボックスではなく、崩れないようにちゃんとガードされた村指定文化財「はぐろさん」でした。

現代は、歯痛になっても文化財を削ることはかたく禁止されていることでしょう。

羽倉地蔵
<はぐろさん>

まっぷたつになっていた地蔵さまは、修理されていますが、頭部の損傷がひどいようです。
なんとか、よくぞ残っててくれましたという思いで合掌するチャリポタ。

地蔵さまボックスのすぐ後ろには、羽倉元蔭の石碑が立っていました。
題字は「羽倉孫兵衛元陰戦没之処」で、昭和3年に建てられています。

羽倉元蔭の石碑裏側
<羽倉元蔭の石碑裏側>

石碑の裏側に回ってみましたが、刻まれているいわれは判読が難しい。
幸いなことに村が説明看板をつけてくれています。

村の説明文
<村の説明文>

説明文には、羽倉元蔭ら尼子回復軍は軍船で米子城を攻めた次の日、今度は日吉津海岸に上陸するとあります。
城主の杉原盛重が留守にしていた尾高城を攻めるためでした。

尼子回復軍は、尾高城ではなく再び米子城(飯山砦)を攻めたという説もあります。
チャリポタの今回の現地調査の目的は、その可能性をさぐることもひとつありましたが、5百人の軍勢がわざわざ遠回りして米子城を攻めるのは考えられないと推測します。
日吉津から尾高城は眼と鼻の先に見えています。

石碑や地蔵さまで今も語り伝えられる羽倉元蔭の武勇伝については、また物語にしようと思います。

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注)リポートには、状況やその後の考察などチャリポタの推測も含まれています。

文・イラスト/チャリポタ